11.14.2013

【キャリア】キャリア教育のウソ(ちくまプリマー新書)

「キャリア教育のウソ(児美川孝一郎、ちくまプリマー新書、2013年)」は、キャリア教育に少しでも関心のある人であれば、迷わずおすすめしたい本だ。日本の若者の現状を見つめる本は他にもあると思うが、この本は彼らにとって、道しるべを与えてくれる本だ。自己分析させたり、知識を与えて自信に変えたりする本ではない。「標準」が崩れてしまい、大変な時代になってしまったと著者は言う。そんないまを生きる若者に、間違えなく勇気を与える本と言ったら、言い過ぎだろうか。


「標準」が崩れてしまった事例として、四人の著者の教え子のキャリアが冒頭で紹介される。

・男性Aのキャリア
大学→大学院(修士)→外資系コンサル会社に就職「正社員」(四年)→独立して起業→順調に出発するが、取引先との契約が切れ、仕事がない状態に
・女性Bのキャリア
大学→大手外食産業に就職「正社員」(二年半)→アルバイトや短期の契約社員「非正規」(一年半)→結婚→離婚して、就職活動中
・男性Cのキャリア
大学(在学中からホームページの制作などを会社から請け負う)→就職活動をせず、卒業後も業務請負の仕事を続ける→30歳の時、会社設立
・女性Dのキャリア
大学→就職活動をせず在学中からやっていたアルバイトをそのまま続ける→教員免許取得し、採用試験に合格→小学校教諭へ


この四人の事例が、「キャリア教育のウソ」という題名を象徴している。以下に、気になった箇所を抜き出してみた。


キャリア教育の目的は「ストレーター(高校もしくは大学もしくは専門学校卒業の三年後も就業継続している人)」を少しでも増やすこと。
ただし現実には半数以下。

そんな予測不可能な世界に向けた準備のための教育(=キャリア教育)なんてそもそも可能なのだろうか。果たして成り立つのだろうか。
いま、現に学校や大学で展開されている「キャリア教育」は、そうした内容になっているのだろうか。この点については大いなる疑問がある。

いま流行りのキャリア教育が実施されている現場に行くと、必ず目にする現場に行くと、必ず目にするフレーズがある。「夢」「やりたいこと」「なりたい自分」「就きたい職業」……等々である。
キャリア教育において、「やりたいこと(仕事)」にこだわりすぎることが、なぜ“危うい”のか。僕が考える理由は、三つある。
①日本の雇用慣行においては、そもそもジョブ(仕事)に応じた採用や育成がなされないことが多い。
②「やりたいこと(仕事)」の見つけ方が、主観的な観点に偏ってしまう可能性がある。
③「やりたいこと(仕事)」を、その実現可能性や社会的意味との関係で理解する視点が弱いように思われる。

結局、僕が言いたいのは、大学生も含めて子どもたちに「やりたいこと(仕事)」を見つけさせたとしても、その選択の根拠は、ずいぶんと“底の浅い”ものになる可能性が強いということである。
そんなことをするくらいであれば、子どもや若者には、現在の日本の産業構造がどうなっていて、職業構成がどう変化し、実際の職場における労働(仕事)の実態が、いかなる状況にあるのかといった、職業や仕事についての理解を深める学習に力を入れることを薦めたい。もちろん、そこには、グローバル化した経済環境のもとでの日本経済のポジションについての理解なども入ってくる。

子どもや若者の「やりたいこと」は、必ずしも特定の職業や仕事という次元に落とし込まれる必要はない。
技術系なのか、事務系なのか、広い意味での対人サービスなのかといった「方向感覚」と、自分が働いていくうえで何を大切にしたいのか、何をやりとげたいのかといった「価値観」が、大まかにつかめれば十分である。
もちろん、実際に働いてみる前にすべてがわかるはずはないのだから、そうした「方向感覚」や「価値観」は、その後変化してもよい。年齢が低い時期には、大きく変化するかもしれない。しかし、それでも高校生や大学生くらいになれば、そうした変化は、ある程度の“幅”に収まるようになるだろう。そうしたぶれない「軸」をつくること、根っこにある自分の「軸」をつかむことが重要なのである。

さらに、僕がいま流行りのキャリア教育に違和感を持ってしまう点として、それが「やりたいこと」探しには熱心なのに、その「やりたいこと」が実現可能かどうかについての探求(判断)は、基本的に個人に任されている(ように思われる)ということがある。

僕は、キャリア教育には、生徒に「夢」や「やりたいこと」を見つめさせ、目標に向けた努力を促すという役割と、生徒の希望と「現実」との“折り合い”をつけさせる役割という、二重の役割があると考えている。いわば、生徒の希望や向上心を“炊きつける(加熱する)”役割と、それを適切に“冷却して”「現実」に着地させる役割である。

若い人たちには、日頃から「やりたいこと」だけに注目するのではなく、自分の「やれること」、現在の社会のなかで「やるべきこと」を意識してほしい。「やれること」は、言うまでもなく個人の能力や適性の問題である。では、「やるべきこと」とは、何だろうか。
現在の社会において、何が「やるべきこと」なのか、どこに課題があるのかを考えることは、子どもや若者の職業(仕事)選択の際の視点となってよい。若い人たちには、若い人たちには、働くとは、自らの仕事を通じて社会に参加し、貢献することなのだという意識を強く持ってほしいと思う。
そして、現実問題としても、「やるべきこと」の周辺には、職(求人)は豊富に存在しているのが常である。


今日の非正規雇用は、若者たちがどれほど努力しようと、どんなキャリア教育を受けていようと、一定のボリュームで「構造的に」生み出される。景気の浮沈により、そのボリュームには幅がありうるが、消滅することはおそらくない。
大人たちは、キャリア教育の推進によってフリーターを予防しようなどと“夢想”している。
もうそろそろ、そんなキャリア教育はやめにしたい。
学校が取り組むキャリア教育は、目の前の生徒や学生のうち何割かは、卒業後すぐに、あるいは将来、非正規雇用の形態で働くことになるという「現実」を前提にしたうえで、そのことへの「対応」を含めた教育へと転換すべきである。そうでなければ、目の前の生徒や学生に対して責任が持てない。

それにしても、こんな、すぐにでもできそうなことに、なぜ取り組めないのか。
学校の教師たちには「非正規で働く」ということに対する“生理的な”アレルギーがあり、自ら育てた生徒や学生には、そうなって欲しくないと強く願っている。そのことが、“望ましくない状態”に対するような教育に取り組むことを妨げていると考えられる。
しかし、それは、“ど真ん中”をついていない。“ど真ん中”の理由は、以下の点に尽きるのではないか。
①日本社会では、いまだに「正社員モデル」への“信仰”が厚い。
②(就職希望者の多い)高校、そして大学は、そうした「信仰」を利用し、少子化のなかでも“生き残り”を賭けて、就職実績をめぐる学校間競争に奔走している。

少なくない若者は、学校卒業後、非正規雇用の形態で働きはじめる。そうした事実を踏まえて、在学中に取り組まれるべきキャリア教育とは、いったいどんな内容になるのだろうか。
結論的に言ってしまうと、僕が必要であると考えるのは、以下のような内容についての学習である。
①「非正規」での働き方の多様な形態、それぞれのメリット・デメリット等についての学習
②次のステップ(例えば、正社員への転換)への見通しの立て方の学習
③公的な職業訓練や求職者支援などについての情報提供
④労働法についての学習、相談・支援機関についての情報提供
⑤同じプロセスを歩むことになる者どうしの仲間づくり


これから社会に漕ぎ出ていく若い人たちには、学校や大学を卒業した時点で正社員になれたかどうかで、「妙な安心感」を持ってしまったり、逆に自分を「見限って」しまったりしないでほしい。正社員になれたとしても、いつ転機がおとずれ、いつ転機がおとずれ、躓くことになるかはわからない。非正規雇用から出発したとしても、その後の転換が不可能なわけではない。
重要なのは、いつ訪れるのかはわからない「いざという時」を意識し、しっかりと“腹をくくる”ことである。そのためには、ふだんから自分を磨いておくこと、頼りになるネットワークを築いておくことが、結局のところ有益な「セーフティネット」になるだろう。